福井県下小学校児童および中学校生徒を対象とした
第64回福井県小学校図画作文コンクール

※作品は原文のまま記載させて頂いております
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小学校1年生
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なかよし二人ぐみ いど りょうた 大安寺小学校 |
なかよし二人ぐみ
大あんじ小学校の一年生は二人だけど、たのしいです。まい日学校にきたら、二人はおもしろくてにぎやかです。
あっくんはかみのけがみじかいです。あしがはやいです。あっくんはたのしくて、おもしろいです。ぼくのえんぴつがおちたら、ひろってくれます。先生がいったことをわすれたとき、おしえてくれます。あっくんとえをかいたり、けいさんをしたり、二人できょうりょくをよくするのがわくわくします。 さんすうのじかんにけいさんファイルをします。たしざんやひさざんが百もんあります。 リーダーから先に二十五もんずつこたえをいいます。八月二十七日にはじめてけいさんファイルをしたときは二十一ぶんかかりました。「がんばれ。ナイス。いま三ぷんだよ。」というようになって、すこしずつはやくなってきました。そして、十一月十七日。
「やったー、二ふん七びょう。このまえのタイムより、めっちゃはやいな。あっくん」 「先生、はみがきのとき、タイマーつかわないでください。二ふん七びょう出たから。」 とぼくがいうと、先生は、 「けすのは、リょうたさんだとおもうよ。」と、いいました。でも、はみがきのときに、けっきょくあっくんがけしました。やっぱり、ぼくじゃなかったとおもいました、でも、ぼくがけしてしまうこともありました。 こくごの「たぬきの糸車」で、糸車をまわすまねをしたり、おかみさんやたぬきがしたことにせんをひいたりしました。ちょうれいで校ちょう先生が、上手にはなしあっていたとほめてくれました。ほめてもらったから、あっくんと二人でもっとべんきょうをがんばりたいです。二年生になったら一年生といっしょにべんきょうするのでわくわく、ドキドキします。いいお手本になるように、あっくんともっともっときょうりょくしたいです。
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なかよし一年生 ほりえ あきら 大安寺小学校 |
なかよし一年生
「えっ、二人 。」一年きょうしつに入ったとき、二人しかいないのがすごくびっくりしました。でも、いまは二人でよかったです。どうしてかというと、二人のほうがともだちになれるからです。
りょうたくんとさいしょはあまりなかがよくなかったですが、きゅうになかがよくなってきました。休みじかんにいっしょにゲームのマインクラフトのえをかきます。いっしょなえをかくので、なかがいいのです。りょうたくんのマイクラのえは、学校で一ばんじょうずなので、ぼくのじゆうちょうにもかいてもらいます。 水よう日、一年生だけでかえるときに、マイクラのはなしをします。としでんせつのはなしです。こうたいでクイズを出します。 「ダイヤモンドのつるはしはなにでできるか。」ときくと、りょうたくんはこたえられました。りょうたくんはべんきょうがすきです。どうしてかというと、じゅぎょうがはじまると、 「先生、テストしたいです。」 というからです。テストが大すきなんです。ぼくもりょうたくんみたいに、べんきょうをすらすらこたえられるようになりたいです。 りょうたくんはおもしろいです。あさのかいでこん月のうたをうたうときに、しきをし たり、ダンスをしたりします。めちゃくちゃおもしろいです。いっぱい見せてほしいです。 「白ごはんでじゅうでん百パーセント。」りょうたくんは、先生よりもたくさん白ごはんをたべます。口いっぱいにごはんを入れて、先生に見せます。ぼくもいっぱいごはんをたべたくてまねをすると、先生に、よくかんでたべてくださいと、ちゅういされます。 あとちょっとで二年生になるけれど、りょうたくんとずっといっしょにいたいです。ぼくのことはきらいになってもいいけれど、ぼくのことはわすれないでほしいです。 |
小学校4年生
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伝えたい自まんの越前焼 籔内 結理 宮崎小学校 |
伝えたい自まんの越前焼
わたしは、四年生で越前焼についての学習をして、越前焼のみりょくをたくさん見つけ ました。例えば、手作業で作られていることや作品の種類が多くあることです。越前焼は、平安時代の八百五十年前から伝わる伝統工芸品です。
九月に作品作りをしました。職人さんがお手本を見せてくれた時は、意外にかんたんそ うだなと思っていたけれど、実際に作品を作ってみるとすごくむすかしかったです。思うようにできないことで、職人さんのすごさを実感しました。でも、自分の作品をつくることは、すごくおもしろかったです。これから越前焼を見たり、使ったりする時は、職人さんの手作業で作っている大切な伝統工芸品だという思いを大切にして使いたいです。
次に、「風来窯」へ窯元見学に行きました。風来窯の大屋さんは、学生のころに建ちく家になろうと思っていたけれど、越前焼をやってみて「これはいいぞ」と思い、越前焼の職人になろうと決めたそうです。大屋さんは、動物が好きなことがきっかけで、今の作風ができ上がったそうです。作品のアイデアは、ねん土とねん土が重なった時の形で、新しい作品を作っているそうです。その時のイメージから作品をつくり上げるのは、とてもすごいことだなと思いました。作る上で大切なことは、「見た目だけではなく、使いやすさにもこだわること」だそうです。品づくりの時にも、「見た目がかわいければいい」や、「見た目が良ければいい作品だ」と思っていたので、使う相手のことを考えて作っているその思いにふれることができて、感動しました。今までで作った作品の中で心にのこっている作品は、「しまうまの置物」と言っていました。作品が大きいため、完成させるのに、われてしまうなど多くの苦労があるそうです。完成した作品だけ見ると、なかなか分からないことを直接聞くことができました。
もう一つの窯元見学として、「国成窯」の見学に行きました。親子三代で越前焼を作る前田さんが、地域の宝を未来にのこしていくために多くの取り組みをされているのが分かりました。作品を作る上で大切なことは、自分の個性を出すことだそうです。前田さんのお話でとくに印象にのこっているのは、「伝統工芸品である越前焼をこれからに伝えていくためには、変えていくことと変えてはいけないことがある」という言葉です。時代のニーズに合わせて変化するのは必要でも、これまでの歴史を守るためには、かんたんに変えてはいけないこともあるのだと思いました。
わたしは、越前焼の学習をしたからこそ、これからも守り続けたいです。そして、越前焼のみりょくをもっともっと調べて、伝え、 越前焼を知らない人に地域の宝として自まんしていきたいです。
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未来にのこしたい越前焼 山内 莉暖 宮崎小学校 |
未来にのこしたい越前焼
わたしは、初め越前焼の歴史を調べていま した。だけど、だんだん変わっていって、今 では越前焼を未来にのこしたいと思うようになりました、なぜ、未来にのこしていきたいかというと、八百五十年前からつないできた歴史をここでおわらせたくないと思ったからです。
かま元さんの所に行って、わたしも作品を作ってみました。作りに行く時、事前にアイデアを考えていましたが、思ったよりむずかしく、考えた通りにできませんでした。それを考えると、かま元さんは、相当な苦労をしながらうまくなっていったんだなと思い、そのすごさに気付きました。
そして、土をさわった時、不思議な感覚になって、とても楽しかったです。土のにおいをかいでみたら、鉄や石のようなにおいがしました。そして、越前焼の土は、ほかの土とはちがい、少しかたかったです。また、作っている時に少しおいておくだけでも、すぐにかたくなってしまうので大変でした。でも、貴重な体験ができて良かったです。わたしがかま元さんの所に行ってわかったことは、かま元さんの家が越前焼のお店でもあることです。一回目の見学の時、作品を作るところを見せてくれて、とてもうれしかったです。しかも、作品を作りながらしつ問にもこたえてくれたので、考えながら作品を作るのを見れたので楽しかったです。見学をして思ったことは、作業場やお店に入ると、「とう芸家」のオーラが出ていたことです。多くの作品がかざってあったので、何回も何回もがんばった成果が出ているのだと思いました。
わたしがかま元さんの作品を見て思ったことは、すごい数の作品があったので、きっと 毎日苦労して作ったのだということです。ほかにも、一つの作品を作るのに一年以上かか るものもあって、すごかったです。そして、かま元さんに、一年間で作る作品の数を聞くと、「七千~八千くらい」でした。わたしはその数の多さにびっくりしました。予想ではてっきり五百ぐらいかなと思っていて、それをはるかにこえてきたのでとてもすばらしいなと思って見ていました。
わたしは、越前焼をどのようにして未来にのこしていくかを考えてみました。それは、今のこっている土と新しい土をまぜることで土を作り、材料が足りなくなるのを防ぐことです。また、越前焼をもっともっとたくさんの人に知ってもらうことです。県外や海外の人にもアピールすると良いと思います。そして、わたしもこれまで続いてきた越前焼の長い歴史をのこしていきたいです。
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越前焼学習を通して伝えたい事 山下 莉里佳 宮崎小学校 |
越前焼学習を通して伝えたい事
越前焼の事について調べる学習では、越前焼の作り方やみんなが知らない細かな事について調べました。越前焼とは、わたしたちが住む宮崎地区の小曽原という場所で生まれた伝統工芸品です。
作品作りでは、ひびが入ると直すのが大変です。それに、そのまま売ってはいけないので、高い集中力も必要です。作品を作るには、色々な道具を使ったり、何日間か乾燥させたりする作業があり、とても大変だなと感じました。実際に見せてもらった豊栄窯の吉田さんの技は、全て手作業でやっていました。庭などをでこぼこにならないように作っていくのが難しそうで、高い技術を見ることができました。外側もきれいで平らにしようと一生懸命に直したりするのが難しそうで、庭を作る時と同じで大変そうでした。自分も作ってみたけれど、庭をもっと深くしたくても、うまくできないし、外側の部分をきれいな平らにしようと思っても、また新しく違う所を作っていくうちに、ひびなども入っていきました。吉田さんに手伝ってもらいながら作品を完成させることができてうれしかったし、とてもきちょうな経験になりました。
十一月には、窯元見学に行きました。特に、国成窯の前田さんに話を聞いたことが印象にのこっています。おじいさんやお父さんの後をついでいかないといけないと思ったそうで す。作品作りでは、自分の個性も出しながら作っていきたいと言っていました。そして、 作る上での苦労が二つあるそうです。一つ目は、お客さんなどに買ってもらう事だそうです。二つ目は、買ってもらった作品を日常で使ってもらえるように工夫し続けなければならないことだそうです。前田さんの話では、色んな人にもっと国応窯のみ力を知ってもらって、作品を使ったり、買ったりしてほしいそうです。国成窯の中を見せてもらった時に気づいた事や分かった事は、日常で使う皿やコップなどが多かったことです。例えば、小さめの皿や平たい皿を作って食べ物のサンプルを置き、どのように使うか分かるように工夫していました。作風などは、陶芸家を三十年やってくるうちに生まれてきたそうです。いろいろな苦労がある中でも、自分が思った作品ができた時に、楽しさや喜びを感じるそうです。
伝統工芸品は、少しずつ変化しながら今まで続いてきました。今の前田さんの目標は、窯元として越前焼に携わり続け、これからにつないでいくことだそうです。
越前焼学習を通して、自分のふるさとである宮崎地区の宝、「越前焼」についてもっと知りたいです。そして、そのみ力を多くの人に伝えていきたいです。
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小学校5年生
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ぼく達のコスモス畑宮ノ下 笠原 崇玄 鶉小学校 |
ぼく達のコスモス畑宮ノ下
今年十月、五年ぶりのコスモスまつりが開さいされた。地域のニュースやCMでも大き く報道された。
コスモスまつりでは、かき氷シロップに氷を入れ、炭酸水を注ぐとできる「コスモスサイダー」がおすすめだ。コスモス畑に咲く花や緑、青空や大地をイメージした色あざやかな飲み物だ。他にも地域の大勢の方が焼き鳥を焼いたり、地域のお年寄りがそばの店を出したりしている。折り紙や押し花で色々な飾りつけをしてくれる方もいて、地域総出でまつりを盛り上げ、大にぎわいだ。子どもたちが楽しめるよう工夫もある。広場があったり、恐竜の着ぐるみを着たりして喜ばせてくれる。まつりには、近所の人や習い事で知り合った友人、遠方から見に来てくれる人もいて、それだけ魅力的なのだと知った。まつりは、休日三日間の開さいだったけれど、平日にも老若男女問わず、沢山の人が訪れたようだ。 六月。ぼくだち五年生は、そのコスモス広苑でコスモスの種まきをした。まずは、手にひとつかみほど種をにぎり、約百メートルものうねに少しずつまいていく。一グループ五人でまいたから、実際は、二十メートルしか種まきをしていないけれど、腰をかがめながらでこぼこした土の上をカニのように歩くので、大変だった。それから、コスモスの種が風で飛ばないように、種をまいたところをペンギンのようによちよちと足で踏みつけていく。それを一往復以上する。 コスモス広苑では、東京ドーム約四個分、 約一億本の花が咲く。ぼくは、毎年こんなに 苦労して花を咲かせているのかと驚いた。地域の人が苦労して、地域の花「コスモス」を咲かせようとがんばっている。ホランティアの方が、水やりや草かりをして世話をしてくれている。ぼくの父も祖父もコスモスの世話をしていた。
「毎年、一億本のコスモスの花を咲かせるにはとてつもない苦労がある。ただ、コスモスを見に来てくれた人が、『きれいだね~。』 と、言ってくれるのを聞くと、今までの苦労が吹きとぶんや。」 自分達が種をまき、数か月後にはきれいな花が咲いたのを見るのは、とても嬉しい。若い人からお年寄りまで地域の人が協力してコスモスまつりを盛り上げている。まつりがにぎわうとみんなが笑顔になる。今年は、ぼくも種まきをして、地域への貢献の一端を担えることが何よりも嬉しい。
ぼくは、ぼくの住む宮ノ下地区にコスモス畑があることを誇りに思う。コスモスを一輪 でも多くきれいに咲かせて、多くの人を楽しませたいと思っている地域の人のことも大好きだ。
五年ぶりに開さいされた「コスモスまつり」。 地域みんなと作り上げたぼくの宝物だ。
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私が住んでいる町の自慢 幸河 杏 鶉小学校 |
私が住んでいる町の自慢
「うわあーきれいだな!。」
私たちが種をまいたコスモスがとてもきれいに咲いた。ずっと、畑一面にピンクの花が広がり、心が豊かになった。
わたしの住んでいる町、あまり店がない。田畑が広かる自然豊かな町。優しくて、いい人がたくさんいる素敵な町。生まれて初めてコスモスの種まきをした時も、地域の方が、種のまき方を分かりやすく教えてくれた。 私が住んでいる町には、宮ノ下地区があるコスモス広苑で有名な所だ。
宮ノ下公民館の方を招き、コスモス広苑について話をしてくださった。私は、その時初めてコスモスを育てるようになったわけやどれくらいの本数を育てているのかを知った。それは、一人の農家さんが休耕田にコスモスの種をまいたことがきっかけで、地域の人にどんどんその輪が広がっていった。毎年、東京ドーム四個分のコスモスの種をまき、秋にはピンクや白、赤色など色とりどりの花が、約一億本が咲くのだそうだ。
六月。私たち五年生は、コスモスの種まきをした。紙コップに種を入れ、一つかみの種を少しずつまいていく。腰を曲げながらカニのように横歩きて歩いた。わずかな時間だが、 腰を曲げていると痛くなった。仕上げは、種が風で飛ばないようにグループのみんなで踏んで歩いた。それを、五人で片道百メートルを一往復以上歩くのだ。何人もの地域の人が、それぞれのグループに寄りそい、種のまき方をていねいに分かりやすく教えてくださった。とても心強かった。 種は、とても小さくてーセンチほどだった。何色が咲くか分かない。ただただ小さくて茶色の種。この小さな種から、一面に広がるコスモス畑が想像できず、不思議に思った。 秋休みが終わった十月下旬。コスモスの花を見に行くことになった。花は、満開だった。 どこまでもピンク色が広がってとてもきれいだった。あんな小さかった種が私の背よりも 高く茎が伸び、大きく広がっていた。コスモスの花が咲いているのを見た時、花を見るだけで、気分が晴れた。間近にある物から元気や勇気をもらえることもあるのだと思った。 この経験は、自分たちだけではできなくて地域の方やいろんな人が手伝ってくれたから見ることができた。こんなにきれいな花が咲いてることがとても嬉しかった。
ほんの少し前までは、こんな素敵な町だということに気付けなかったけれど、地域のこ とを調べたり知ったりしていくうちに私が住んている町はとてもいい町だと思えた。たと え田舎だとしても家族や気の合う友達、優しい地域の人たちがいるこの町はやっぱりいい。私は、この地域がとっても大好き。自慢の町。
この町の自慢を大人になっても伝えていきたい。 |
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宮崎地区の宝物 清水 茉奈 宮崎小学校 |
宮崎地区の宝物
越前町宮崎地区八田に、コウノトリという鳥が来ています。コウノトリは絶滅危惧種で、 とても貴重な鳥です。環境が良くないと来てくれませんが、宮崎地区は自然が多いので来 てくれたのかもしれません。やって来たコウノトリは、「けんぞう君」と「みずほちゃん」です。今年、この二羽の間にひなが生まれました。「ほたる君」と「れんげちゃん」です。 このひなの名前は、宮崎小学校の五年生みんなで選んで決めました。このコウノトリがや ってくる宮崎地区で、「田んぼの天使」というお米が作られています。このお米は有機米で 体にもとてもいいお米です。有機米とは、農薬や化学肥料を使わず、水田が持っている生産力を引き出して作られたお米です。
五月、そんな「田んぼの天使」を作っている井上さんにお願いして、田植えを実際に体験することができました。苗の束を少しずつ取って植えていくのですが、まっすぐきれいに植えるのですがとても難しいと感じました。また、ずっと同じところにとどまっていると、どんどん泥の中にはまっていってしまいます。 できるだけ素早く足を出して進みながら植えることが大切だと分かりました。また、井上さんへの取材で分かったこともありました。それは、草とりや害虫対策の大変さです。有機米作りでは、深水管理などで草が生えないような工夫をしています。さらに、び生物などを使って土作りをしていて、び生物が好むような環境をつくり、そこから良い土を作ってあげることが大切なのだそうです。 九月には稲刈りもおこないました。今ではコンバインという根利な機械がありますが、 手で刈ってみると汗だくになり、とても大変でした。機械のありがたさが分かります。また、同じ高さで刈り取らないといけないのに、手で刈るとすぐにパラバラになってしまいました。感覚をつかむのがとても大変でした。 昔の人は機械も何もなく、すべて手作業で稲を刈っていたと思うと、とてつもなく大変で 疲れたのではないかと思います。実際に体験することで、お米を作ってくれていることのありがたみが感じられました。 田植えや稲刈りを体験してみて考えたことは、人間は自分たちが便利に生活するために 森林をばっ採したり自然に手を入れたりしているけれど、それが動物や生き物達にとって はよくないことではないかということです。コウノトリも今は来てくれていますが、豊か な自然環境が汚されたり、手が加えられたりすることで、住みにくい場所になってしまう かもしれません。田んぼの天使のお米がずっと作られる場所、コウノトリが来てくれる環境を守り続けることこそ、私達がこれからしていかなければならないことだと思います。そのためにできることは、どんなことでも進んで取り組んでいきたい、私はそう思いました。
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無農薬の田んぼの天使 川室 勇咲 宮崎小学校 |
無農薬の田んぼの天使
「田んぼの天使」は、農薬や化学肥料を全く使わずに作られたお米のことです。ぼくの家の近くの井上さんという農家の方が作っているとてもおいしいお米です。農薬を使わないので、井上さんの家の田んぼの周りには、ホタル・ハッチョウトンボなどの珍しい水棲生物がたくさん生息しています。また、その生物を食べるコウノトリもやってきます。
ぼくは、総合的な学習の時間に井上さんのお家に行き、米づくりやコウノトリの生態、希少生物のことについて教えてもらいました。田植え体験では、実際に田んぼの中に裸足で 入りました。土がとてもトロトロしていて、気持ちよかったです。でも歩くのはとても大変でした。保育所の時にも一度体験したことがあったけれど、そのときの田んぼはもっとカチカチでした。そう思うと井上さんの田んぼは本当に土がやわらかく、足がどんどんしずんでいきます。その理由は土作りにあります。この土には、米ぬか・油かす・魚粉などを発酵・熟成させた手作りの有機肥料が使われ、この土だからこそ水棲生物が集まり、またその生物たちの働きによって土がトロトロになるのだそうです。 田んぼの近くには、ビオトープもあります。イモリ・メダカ・タニシ・ゲンゴロウ・ガム シ・ヤゴなどがたくさんいました。水の外には、カエル・モンキチョウそしてコウノトリです。コウノトリは、主に水棲生物や昆虫を食べています。無農薬さい培だからコウノトリも健康でいられるのです。コウノトリを観察してみると、赤ちゃんなのに親とあまり大きさが変わらずびっくりしました。四月にはまだ巣から頭が少し出ていただけなのに、一か月でこんなに大きくなるなんて、親鳥がたくさんおいしいえさを取ってきているのかなと思いました。ぼくの家は巣とうの近くなので、これからもそっと見守っていきたいと思います。
九月には、みんなで稲刈り体験もしました。かまを使って刈りました。うでが痛くなるし こしも痛くなるし大変でした。昔は全部人力でやっていたと思うとその苦労が分かります。
これらのことから学んだことは、人間の都合で使っている農薬や化学肥料によって、田 んぼや自然の生き物が減ってしまうということです。そしてその生物を食べる鳥や他の生 き物にもえいきょうが出るということです。手作業の害虫駆除や草むしりは大変だけど、井上さんの方法でお米を育てると、生き物にも自然にも人間にも優しく、おいしいお米ができます。そのためには、苦労もしないといけないのかもしれません。今ぼくにできることは、川や田んぼをきれいに保つためにゴミを捨てないことです。そして、井上さんのように、みんなのことを心から思ってがんばっている人がぼくの住んでいる地域にはいます。そのことが分かってとてもうれしかったです。
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宮崎地区の宝、田んぼの天使 多田 龍駆 宮崎小学校 |
宮崎地区の宝、田んぼの天使
「田んぼの天使」とは、水湛える田んぼから自然の生態系を呼び戻したい、また次の世代の子供達に安全安心なお米を届けたいという二つの理念からできた、農薬・化学肥料,・化学物質をいっさい使わないお米の名前です。自然にも体にも優しい、宮崎地区で作られて いるお米です。ぼく達は、総合的な学習で、この「田んぼの天使」について学びました。なぜこの学習を始めたのかというと、一年前田んぼの天使を作っている田んぼにコウノトリの巣塔が建てられ、そこにコウノトリがやってきました。そして今年の春、その二羽の間にひなが生まれたのです。そのひな達の名前をぼく達五年生でつけることになり、そこからこの学習が始まりました。
五月には、この田んぼの近くにあるビオト―ブで希少生物探しをし、赤イモリやゲンゴロウなどを見つけました。自然観察員の方に名前や特色を教えてもらいました。このビオトーブに生息している生物、植物はどれも想 像を超えたものばかりで、探しながらわくわくしました。その後、機械では植えられない場所に苗を植える体験もしました。足が泥にとられたり、間かくを均等に植えられなかったりと、とても難しかったです。田植えの後には、コウノトリの観察もしました。コウノトリをびっくりさせないように遠くからみんなでながめました。ひなですが、とても大きくたくましく見えました。
「田んぼの天使」のような有機のお米は、とても貴重であり、農薬の使い方をきちんと考え、これからも自然環境を守っていかなければならないと、このお米を作っている井上さんからお聞きしました。有機米だから、除草剤は使えず、草むしりも地道に手作業でしているそうです。ものすごく手間がかかる大変なこととだと思います。 九月には稲刈りもしました。一人ひとりかまを持って、手作業で刈りました。 最初はうまく出来ずにあまり進まなかったけど、刈り進むにつれてだんだん慣れていきました。それでも一時間で、田んぼの半分までしか刈れ ませんでした。
ぼくはこれらの体験から、米作りはとても大変で、「田んぼの天使」というお米には、 ものすごく愛がこめられていると思いました。農薬や除草剤を使っても大変なのに、それら を一切使わずに作るなんて、愛があるからできることです。ぼくはスーパーに有機米があ るか探してみましたが、実は一つもなく、この完全無添加のお米はとても貴重で、そんな貴重なお米を作っていることはとてもすごいことなのだと思います。この前、家でも「田んぼの天使」を食べましたが、家族みんなが「おいしい、おいしい。」と笑顔になりました。こんなにおいしいお米を食べられるのは、愛情こめて米作りをされているからです。これからも感謝して食べたいなと思いました。
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自然の宝物 望月 木葉 宮崎小学校 |
自然の宝物
「田んぼの天使」とは、越前町宮崎地区八田で作られているお米の名前です。この「田んぼの天使」とは化学肥料や除草剤などを使わずに作られたお米で、有機米に認定されました。
私たちはその「田んぼの天使」を作っている井上さんにお願いして、田植え体験に行きました。最近は、田植え機で草を植えるのをよく見かけますが、昔はすべて手作業でおこなっていたそうです。私たちも、手作業で植えました。田んぼの近くには、ビオトープがあり、そこにどのような生き物がいるのかを探してみました。すると、いろいろな生き物を見つけることができました。
田植え体験とビオトープでの生き物探しをして、たくさんの珍しい生き物がいるのは、いろいろな工夫や苦労を積み重ね、自然環境に良い水田を作り上げてきたからだと分かりました。井上さんが作っているお米だからこそ、有機米に認定されたのです。有機米に認定されるには、第三者に認めてもらわないといけません。除草剤を使わず、自然の力を借りて草が生えにくい水田づくりをしている努力が分かってもらえたのではないかと思います。また、土にも秘密があり、イトミミズという虫のふんが水田の表面に積もり重なって、土の表面に「トロトロ層」と呼ばれる層ができます。この「トロトロ層」によって、草の種が泥に沈み、草が生えにくくなるのです。私は、井上さんが作ってきた水田にイトミミズが来るのは、井上さんが何があっても化学肥料を使わず、根気強く本当にいい土づくりを続けてきたからだと思います。
九月には、稲刈り体験もさせてもらいました。最近は、稲刈りを機械でおこなっている所がほとんどです。今回、私達は手作業で体験させていただきました。コンバインだと五分ほどで刈り取れる所を、私達二十六人で、一時間以上かかりました。コンバインが入れない部分は全部手で刈らないといけないので井上さんのお家では、少ない人数で長い時間頑張っているのだなと思いました。私が刈っているとなりで、井上さんが見ていてくれました。その時、私が刈り残したのを見つけ、
「一本も刈り残しがないようにしてね。」 教えてくれました。その言葉から、稲穂一本一本、お米一つぶ一つぶを大切に思って育てているのだということが伝わってきました。 私は、この田植え体験や稲刈り体験、ビオトープでの生き物探しを通して、井上さんの努力されている姿や、お米作りに対する熱意に触れることができました。これからは、お米や食べ物に対し、きちんと感謝し、「いただきます。ごちそうさま。」をしっかり言いたいと思いました。また、自然の恵みを大切にし、生き物に優しく接したいとも思いました。
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中学校1年生
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「仲間がいたからがんばれた。」 長尾 理愛 勝山北部中学校 |
「仲間がいたからがんばれた。」
「ファイトーっあと一周!」
今、私は県中学駅伝競争大会に向けて、陸上練習に励んでいる、足音をよく聞いて、リズムを意識。呼吸もしっかりする。色々なことを考えながら走ることは嫌いじゃない。友達には「走っている時、つらくないの?」とよく聞かれる。もちろんつらい。つらいけれどそれが楽しい。そんなことを考えているといつのまにかゴール寸前。ラストスパートをかけ、最後まで気を抜かない。そしてゴール。私が練習に励む理由は、奥越予選のリベンジを果たし、北信越に出場するためだ。予選では逆転負けで二位という悔しい結果だ。だから、県中学駅伝競走大会までは陸上に全てを捧げる。そう心に誓った。 しかし、最近タイムが良くならないこと悩んでいた。それに加え他メンバーに負けてしまった。五人中四人は陸上経験で私もその一人だ。バドミントン部に入ったものの、この駅伝に向けて走ることはやめていなかっ た。それなのに陸上未経験の子に負けてしまった。私の心の中は、悔しいを通り越して「次 は負けない。」という決意があった。大会まであと少し、どう過ごすかは私次第だ。 ついに大会当日、いつものアップ、いつもの調整をし、私が走るのは第三区。大雨の中、スタートの時がやってきた。
「オンユアマーク、パンッ。」 一区と二区の子が走っている間、実況の人の「六位、勝山北部。」という言葉を聞くと、私 の番だ、と緊張してきた。でも、全力を尽くすのみ。 「がんばれ!」 応援の言葉と襷を二区の子から受け取った。襷は重かった。この襷には大量の雨と仲間のこの駅伝にかける想いが染みこんでいる。絶対にこの襷をつなぐ。無我夢中で走っているという間に四区の子が見えてきた。 最後の力をふりしぼり、襷を四区の子に渡す。その瞬間、全身の力が抜けた。疲れた。だけ ど休んでいる暇はない。すぐさま応援へ行かなければ。自分にできることは精いっぱいし なかれば。 大奮闘の結果、六位入賞。傍目から見たら「陸上部のない、生徒数も少ない学校が入賞したのに快挙だろう。」と思うかもしれない。しかし、私は申し分けないという気持ちと涙があふれそうになった。でも泣けない。一番泣きたいのは三年生の先輩だから。勉強の時間を削ってこの駅伝に全力をかけてくれていたのに、目標だった北信越出場には届かなかった。私は役に立てたのだろうか。タイムは奥越予選の時よりも遅かった。全く成長できていない自分が情けない。しかしチームメイトの一人がこう言ってくれた。 「応援、めっちゃ心に響いた!そのおかげで 最後に一人抜いてゴールできたよ。」 落ちこんでいた私を救ってくれた言葉だった。 |
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僕の経験 柴田 光稀 勝山北部中学校 |
僕の経験
大会が始まる前。僕は、バドミントンの大会に向けて練習を続けていました。暑い日でも 部活動で知り合った友人や先輩と練習をしていたころ、僕はダブルスを組むことになりました。
しかし、ベアとは協調性がなく、いつも子供喧嘩ばかりしていました。ペアがミスをすると、「お前打てよ。」や「何やってんのう。」など、負けたくない気持ちが強くて、暴言を互いに吐き出していました。互いに吐きあってせいか、怒りがどんどん込み上って来て冷静でいられませんでした。結局、僕らは試合に敗れました。「ちゃんとシャトル入れろよ」「お前だってミスばっかすんな」どんどん怒りが込み上がってきました。
でも少し申し訳ない気持ちが段々と増えていきました。家に帰った後、心の中で(なんでこんなこと言ったんだろう)(深く傷ついていないな)と思うようになりました。僕がミスをしなかったりペアのカバーをすればもしかしたら勝っていたのかもしれない。もしかしたら、僕はペアに任せっきりだったかもしれないと、思いました。他の選手のプレ―を見ると、「どうしてそんなにチームワークが良いのだろう。」と羨ましく感じたし、謎に思いました。その選手のプレーを見たときに互いに責めていませんでした。僕らと違って喧嘩もせず、集中してプレーしていました。僕らの悪いところは互いに責め合っていたのが良くなかったのではないのか、と思いました。練習不足でもあるけど、まず互いに相手を思いやることが大切なのではないか。怒ってばかりで試合に集中できなかったのかもしれない。でも思いやることだけで強くはなれない。ならべアに自分の直さないといけないところを、教えて貰えばいい。また声を出し合って意気投合しようと思いました。また声を出し合って意気投合しようと思いました。 でも、僕には、実行できませんでした。僕は少し短気なのか、すぐ喧嘩に寄せてしまう癖があるのではないのかと思いました。そこ が自分の短所でした。練習試合のとき、また喧嘩してしまいました。でも今度こそ謝ろうと心に決めました。相手に近寄り、静かに誤りました。ただ謝るだけじゃなく自分の悪い所をなるべく直すと誓い、悪ような言葉を出さずに直してほしいところを言いました。別に怒られても良いと思いました。相手が許せていないなら、それを受け止めなくてはならないと思ったからです。
しかし相手はにっこり笑い何言いました。前のことなのであまり覚えていないけど「そうやぞ」と、言っていたと思います。その時僕は「うるせぇ」と言いましたが、相手がにっこりしていたのか、僕まで心が丸くなりました。次の試合が始まるとき、二人で注意するところなど話し試合が始まりました。声を出し合いながら味方同士で、相手に指示をしたりカバーすることができました。ミスをしてもすぐ喧嘩せず、応援の言葉を言い合っていました。あんな嵐のような喧嘩だったけど 互いに注意すべき事を受け止め空に日差しが出たような感じでした。
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「出かけること」 桑野 汰一 丸岡南中学校 |
「出かけること」
「ガラガラガラ」
小屋の扉を開け、自分は中から自転車を取り出した。今から自分は初めて自転車で買い物に行く。コンビニに漫画を買いに行くことにした。二月の外は少し雪が残っていていたので 少し嫌だったか、漫画を買うために自転車を漕ぎ始めた。慣れない自転車だったのでグラグラしているが、少しずつ慣れてきた。
中間地点まで来たところで横から「ガサガザ」と音が聞こえた。ビックリして横を見るとキジがいた。初めて見るものたったので驚愕と怖さもあったが、僕はワクワクしていた。しばらく見ていると自分の目的を思い出した。急いで自転車を漕ぐと同時に、キジをもう1度見たいという感情があった。それからは事故もなく安全に帰ることができた。家に帰ってからは新しい物に出会ったワクワクが忘れられなかった。そして自分は毎週漫画を買うために出かけようと思った。
翌週になると、外は雪がとけ風もなく天気は絶好調だった。そして自分は自転車を漕ぎ始めた。まだ日の出はしていなかったので少し薄暗かったが自分はそんなことも気にせずに、ただ全力で漕いでいた。いつもの中間地点で少し休息することにした。自転車から降りると、「カーカー」という鳴き声がし、カラスがいることが分かった。前の自分ならそんなことは無視をしていたが、あまりの大群がたったのでさすがに驚いた。こんなに多くのカラスは初めて見るので自分は凄いと思った。しばらくしてコンビニに着き漫画を買い、コンビニを出たら突然の光に眩しいと思った。その光の正体はすぐわかった。日の出した太陽だった。自分はあまり早起きは出来ず、起きても家でテレビを見ているだけだ。今日は何とか起きられた。だから、こういう太陽は初めてだった。神秘的で感動した。それからというもの毎週自転車を漕ぎ毎週新しい物に出会った。例えば、島のひなや倒れている木とても大きい虫など、どれも初めての物だった。自転車を遣いでいるときに思った。自分は漫画を買うために行っているのではなく新しい物に出会ったのが楽しいから出かけているのだと。
ある日のこといつも行っているコンビニに漫画が売られていなかった。いつも買ってい る漫画だったので続きが気になった。そこで少し遠いコンビニに行くことにした。場所は わかっているが、自転車で行くのは初めてなので不安だったが、覚悟を決め自転車を進め た。何事もなく漕いでいたら目の前に坂が見えた。長い坂だったので、立ち漕ぎをして力強くペダルを漕いだ。苦しかったが何とか坂をこえた。しばらくして直進していると、物凄い下り坂が見えた。それを見た瞬間自分の心はワクワクで満ちた。前に人がいないのを確認 すると勢いのまま坂を物凄いスピードで下りた。あっという間だった。だがしっかりと楽しかった記憶があった。風を切るような感じで帰る時にもう一度やろうと思った。コンビニには無事に着き、帰る時も下り坂と楽しんだ。それから毎遍その道を通るようにした。
時は経ち、十二月。雪が降り始めて朝になると辺りは雪で真っ白だった。自分は何とかしてあのコンビニへ行こうとした。その時それを見た母が車に乗せてくれた。雪が積もっている日には母の車でコンビニに行くことにした。
僕の自転車の旅は、新しいことに出会い、 いつの間にか体力がつき、家族との仲が深ま った。自分にてって出かけることとは、人間関係のようなものだ。そして自分は今週も新しい物に出会うために自転車のペダルを強く踏んだ。
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大切なのは 宇佐美 鈴 勝山北部中学校 |
大切なのは
私は、中学校に入り、吹奏楽部に入部しました。私はユーフォニアムという楽器を担当しています。ユーフォニアムの担当は学校で一人しかいないので、とても責任重大です。 今冬にあるアンサンブルコンテスト(以下アンコンとします。)に向けてがんばっています。
先日は、アンコンに向けて外部の先生のレッスンがありました。そこで、自分の実力のなさを痛感し、危機感を感じました。レッスンを受けるまでは、自分の練習に疑問を感じませんでしたが、先生に様々な指摘を受けて、今までの練習がいかに緩いものだったかが分かりました。その日の夜は、ユーフォニアムの練習をがんばりたい気持ちでいっぱいでした。しかし、その日は塾が六時半から八時半までありました。私はレッスンでの危機感が頭に残り、塾を休むか迷いました。勉強の大切さも分かるし、中間テストに向けて勉強をがんばりたいとも思いました。迷った末、私は塾を休み、ユーフォニアムの練習を選びました。そのことをさっそく親に伝えました。
ところが親は、塾に行きなさいと私を叱りました。きっと親は、私が思っているほどアンコンの練習が大切だと思っていないのです。親の言葉に私は複雑な気持ちになり、涙があふれてきました。
泣きながら、自分の気持ちをよく考えてみると、塾よりもアンコンの練習を選んだのは、 顧問の先生に怒られるのが怖いという気持ちも少しあると思いました。しかし、整に行か ずに勉強不足で、中間テストの成績が下がってしまうと、親に怒られます。つまり、私は怒られるのが怖いかで、どちらをがんばるか決めているような気がしました。そうではなく、大切なのは自分の気持ちなのに…。
勉強、いやアンコンの練習。と、ぐるぐる私の頭の中をかけめぐります。親しい友達にどちらをがんばるべきか聞いてみたところ、友達も親と同じように「勉強」と言うので、私は少しパニックになり、何もする気がなくなりました。ですが、私の中ではアンコンの練習が強く頭にたたきこまれています。もう一度、友達に相談したところ、「自分で考えた方をやりな。」と言ってくれました。そして、私はアンコンの練習も勉強もできる限りかんばることに決めました。怒られるのが嫌なのではありません。私は「どちらもがんばりたい」のです。 自分の気持ちが決まってからは、日々必死になりました。平日は一時間半、休日は二時間勉強することにして、残りの時間でアンコンの練習をすることにしました。また休むことも必要らしいのでペットの犬とドックランに行く時間もとることにしました。いやされる時間をもつことでリフレッシュされ、より集中力が高まる気がしました。 また、仲間の存在も私には大きなものだと感じました。アンコンはチーム五人で出場します。みんなで金賞をとるという一つの目標に向かって助け合いながら日々の練習をしています。 一人で悩まず、仲間と共に出場できることに感謝の気持ちをもちながら、練習に取りくみたいと思いました。
勉強に関しても、わからないところかあったら、友達に質問するようにしています。友達は快く教えてくれているのでとても助かっています。勉強も一人ではなく、周囲の人に支えられていることを感じました。 大切なことは、まず、自分の気持ちを考えること、そして、自分は一人ではなく、たくさんの人に支えられていることに気づき感謝することだと思いました。
この先、大変なことも多いと思いますが、自分の心と、周囲の人に相談しながら、私なりにがんばっていきたいと思います。
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言葉を使える私達 平鍋 安胡 勝山北部中学校 |
言葉を使える私達
私達は、大切な人に自分の思いを伝えられているだろうか。私は自分の思いを伝える方 法の一つとして「言葉で伝える方法」があると思う。ここでは言葉について考えてみる。
「言葉」というものは人間にしか使えないものであり、すごく特別だ。そんな言葉をどう活用していけば良いのだろう。 亡くなった私の祖女は認知症を患っていたが、よく喋る人だった。元気なころは、時間さえあれば、大切にしていた畑でなった野菜の話を、私に沢山話してくれた。 「ばあちゃん、孫がいるから頑張れるわ。」 「べっぴんさんやねて。」 というような言葉も毎日のようにかけてくれる。あまりにもずっと話し続けるものだから ときどき面倒くさいと思う事もあったが、私に温かい言葉をかけてくれる祖母のことが大好きだった。 しかし、認知症がひどくなってきてからの祖母はがらっと変わった。ほとんど言葉を発することはなくなったし、口を開くと昼ご飯はまだか?ともう食べた昼ご飯の話を繰り返しする。もう食べたよと返すのにも疲れ、
「もう、うるさいなあ。」 とひどい言葉を言ってしまうことも少なくなかった。そんな事を言っても認知症の祖母は 私が言った言葉の意味がわかっていないようだった。そしてある日、 「もう、うるさいなあ。」 またひどい言葉をかけてしまった。私はハッとして祖母の顔を見る。祖母はすごく悲しそうな顔をして少し笑いながら、ごめんなあ。と一言いって部屋に行ってしまった 「ごめんなさい。」 ああ、言いそびれた。自分はなんてひどいやつなんだろう。私はあのときの強がって笑う祖母の顔を忘れられない。 その日から一気に祖母の認知症はひどくなってとうとう家にいられなくなった。施設に会いにいってもだいたいは寝ているし、よく て起きていて話しかけられても祖母に私の言葉はとどかない。 それからまもなく、お医者さんから余命宣告をされて祖母が家に帰ってきた。最後くらいはみんなでいたいという母の願いだった。祖母が亡くなるのが卒業式の日になるかもしれないと聞かされていたが、卒業式どころか二週間後のいとこの成人式が終わるまで頑張って生きていてくれた。いとこの成人式があった次の日。みんなに囲まれながら息をひきとった。あんなにおしゃべりだった祖母だと思えないぐらい静かに。母が、祖母に 「がんばったね。」 と届くはずのない言葉をかける。私はその時に初めて大切なことに気づかされた。私は、 「ごめんね。」も「ありがとう。」も伝えられず、更にはひどい言葉をかけたまま祖母とお別れをした。固く目をつぶる祖母に「ありがとう。ごめんね。」と声をかける。もうこの言葉が届くことはない。それを実感すると胸が苦しく なった。それを実感すると胸が苦しくなった。「ごめんね」あのときちゃんと言えていたら どんなに良かっただろうか。「もう、うるさいな」あの言葉を言わなかったら何か変わっていただろうか。「ありがとう」この言葉も言えていたら。私の心のなかには今でも、強い後悔が残っている。 私はこの経験から、言葉が及ぼす力の大きさを痛感した。言葉を使える私達は、人と簡単に傷つけられ、思いを伝えられるものでもある、「言葉」を使いこなすことを大切にしなければならないと思う。私は今回の失敗を忘れることはない。そして、言葉を使う私達だからこそ、気をつけなければならないことを日々、考えながら過ごしていきたい。これを読んでいる人にも「人が傷つくような言葉は言わない」小さな頃から言われてきたこのことをもう一度考え直してほしい。そして言葉でちゃんと伝える大切さを知ってほしい。
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ニュースの情報を信じていますか 吉谷 花菜 丸岡南中学校 |
ニュースの情報を信じていますか
今はどこでも情報を得ることができる。そしてそこには嘘の情報も紛れこんでいる可能 性がある。本やニュースには正しい情報しか入っていない。私たちはそう信じてきたが、 本当にそうなのだろうか。もしかすると、ニュースでも偽の報道がされているのかもしれない。 私たちはこれから何を信じ、どう行動すれはよいのだろうか。
「岸田元総理がユーチューバー!?」私は動画を見てビックリした。政治家がユーチュー バーをするなど考えてもみなかったことだからだ。しかし、ユーチューバーといっても政治家、とうせ政治に関する堅苦しい動画が投稿されていると思った。しかし、動画を見てみるとそこにいたのは、ただの優しそうなおじさんだった。子供たちへの対応は優しく、地方に行けばとても好かれ、ニュースで見てイメージしていた気難しそうな姿とは全く違ったのだ。 ニュースでは、増税メがネと呼はれる姿が報じられ、悪いイメージしかなかった。増税をして、みんなの生活を苦しくして、ひどい人なのだと思っていた。しかし、増税には意味があった。増税をすることにより国や自治体の収入が増え、それによって公共サービスなどを新たに実施したり、より充実させたりすることができる。それに、増税を決めることかできるのは国会議員でその議員を運ぶことができるのは私たち国民の権利だ。選挙にも行かず、ただ批判するだけの行為は道理にかなっていない。ニュースだけの印象でその人を誤解し、悪く言うのは間違っている。
この前の斎藤知事のパワハラ疑惑でもそうだった。ニュースではパワハラの問題はばかり取り上げており、パワハラをするような人が知事になるなんてと疑惑でしかないのに勝手な想像をした。印象としては最悪だった。パワハラ疑惑的こんなにも大々的に報道されているのなら当然、当選することはない、そう思っていた。しかし、ユーチューブなどでは斎藤知事を応援する声が多かった。斎藤知手の演説や配信の動画を切り取って広める活動をしたり、イラストを投稿していたり、こんなにも応援されているのにパワハラをしているなんて私は信じられなかった。そしてネットで投稿された姿はとても誠実そうで、知事に当選した理由が分かった。
私はこんなにもネットとニュースを見たときの印象が違い、驚いた。そして私はニュー スに不信感を持ち始めた。ネットで調べてみるとニュースは偏っているという情報がいく つもでてきた。しかし、どの情報が本当か分からない現状で、出処も分からないネットの情報を信じていいものかも分からない。ニュースもネットも信じられない、そうなったら私たちはどうすればよいのだろうか、どこからか情報を得ないと世の中の現状を知れず、置いてきぼりになるばかりか、時代遅れな考え方を否定されるかもしれない。
それでは私たちはどうするべきなのだろうか。偏りがあるかもしれないニュースを信じ る。それとも、注意深く正しい情報を見極めなければならないネットを信じる。あなたはどちらを選ぶ。私はどちらなら信じられるとはいえない。だから、どちらも見てみることにする。両方の情報が一致していれは、信憑性が増すのではないだろうか。私は一つの情報だけを信じ、それに左右されないような人になりたい。みなさんも情報にまどわされないように注意深く見てみてはどうだろうか。
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中学校2年生
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勝山市の発展に向けて 坂 夏江 勝山中部中学校 |
勝山市の発展に向けて
幼い坂の思い出がつまっている場所といえば、ゆめおーれ勝山。初めて蚕を見たときの 驚き、育て、亡くなったときの悲しみといった様々な気持ちをこの施設と共に感じてきた。中学生になり、訪れる機会が減った今、勝山市について考えた。ゆめおーれ勝山のように文化や伝統を活かした観光業をしている街。そこで、より多くの人に「よさ」を知ってほしいという思いを胸に探究活動を進めた。
恐竜博物館をはじめ世界にほこれる場所があるのにも関わらず、知名度が低いことが勝 山市の課題である。 一年生の遠足では鯖江視察を行い、勝山市をPRするときの心得を市役所の方から学んだ。 中学生のエネルギーで地域の人と協力することや「〇〇な街」といったテーマを決めて、目標を明確にすることが大切であると知った。二年生になり、金沢遠足でPR活動を行った。金沢駅の前で勝山市の魅力を観光客の人に伝えたり、地下のスペースで左義長太鼓をひろうしたりした。PR活動に向けて、準備する期間がとても楽しく、成長を感じた。 「まちづくリカンパニー」という探究活動では、勝山市の発展に向けて考え、行動した。その「会社」の中でもPR部に所属した私は部長を務めた。金沢市でどのようなPR活動をするか話し合いをしていたときに、「『ありきたり』ではなくおもしろいPR方法を考えよう」と先生に助言をうけた。しかし、新たな提案が出されることはなく話し合いが行き詰まった。「PRを成功させなければいけない」「言われたことをしなければいけない」と一人で焦っていた私に、副部長である友達が、 「シンプルでいいじゃん。」 と言った。その時を、私たちは勝山市の魅力を伝えることを一番に掲げ活動を始めたことを 思いだした。金沢遠足ではパンフレットを見せながら魅力を伝える活動をすると決まった。言われたことを全て反映しようとすると、行動できなくなると思う。多くの人の意見をまとめるときは、「シンプル」に変換し、組み合わせることで新たなアイディアをだしていきたいと思った。 PR活動で外国の人に英語で魅力を伝えた経験は、遠足の中で一番の思い出になった。知 らない人に話しかけることに緊張する中で言語が異なる人とコミュニケーションをとることは、簡単なことではなかったが、勇気をだして良かったなと思う。また、お子さんに、 「勝山行ってみたい。」 と言われたことが嬉しかった。幅広い世代の人と交流した金沢遠足は、多くの刺激があり 「またPRに挑戦したい」と思えた行事であった。 これまでの探究活動で身につけたことを生かして将来につなげたいと思った。身近なと ころでは、生徒会活動がある。みんなが楽しめるような行事を企画する上で、人の意見をとり入れながら、最高の思い出になるような行事を実施したいと思う。勝山市は文化を守りつづけている街だと探究活動を通して改めて思った。私たちにできることを考え、勝山 市の発展にこうけんしていきたい。 |
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命の重要性 山内 茉依 勝山北部中学校 |
命の重要性
「ギュードンッ」
後方でものすごい音がした。その日は、休日で母と福井に車で買い物しようとでかけていた途中だった。ものすごい音がしたため後ろを振り向くと車の衝突事故が起きていたのだ。そのときちょうど、テレビで能登豪雨で中学校三年生の女子生徒が行方不明になっているというニュースを見ていた。そのニュースを見ていたこともあり、とても死の存在か近く感じた。とても怖かった。唐突に起きたため、事故のことが理解できず固まっていた。すると母がすぐに警察に電話をかけていた。その姿がとてもかっこよく見えた。私だったら、あんなに冷静に対応できなかったと思う。なぜそんなに冷静に電話をかけられたのか聞くと、昔に 母は交通事故を見たことがあったが恐怖や誰かがどうせ電話してくれると他人任せにしてしまい、通報しなかった。 そのことを今でも悔やんでいるそうだ。話をしている間に、故急車がきてくれた。そのとき初めて、夢ではなく現実で起きたことなのだと理解した。 今まではニュースなどで、交通事故のことが流れてきても、どこかで他人ごとのように感じていて、私は大丈夫と思っていた。しかし今回、事故が身近に起きてしまいとても怖かった。もし、家を出る時間が少しでも返れていたら事故に着き込まれていたかもしれない。人は食物連鎖の頂点に存在していて、そう簡単には死なないと思っていたけれど、人はこんなにもあっけなく死んでしまうことが分かった。
今回のことで 、私は命を奪う側にならないように、交通ルールを見直そうと思った。私はまだ、未成年のために車の運転はしない。けれど、通学のために自転車は乗る。自転車で命を奪うことがあるのかと初めは思っていたけれど、調べてみると、女子大学生がスマホを
操作しながらの自転車を運転して高齢の女性にぶつかり、死亡させてしまったという事故を知った。このことから自転車は十分、人の命を奪う危険性があること知った。また、自転車は軽車両に分類され、自転車など車両の一部であることも知った。そのため、事故につながる、スマホを操作しながらの運転・傘さし運転・二人乗りなどの危険な行為はしないようにしようと思った。また、自分の身を守るために、登下校中だけでなく、日常でもヘルメットの着用を心がけようと思った。
今までも看護師なりたいという夢があったが、今回のことでその思いは、より強くなった。命救う例である医療関係の仕事につきたいと思ったからだ。今回のことで私は、命の重要性について知ることができた。
命よりもお金が大切と言っている人いるが、私はその考えには反対だ。なぜかというと、命があるからこそお金が使えるからだ。他人の命と比べるとお金の方が大切という意見もあるが、私はその人にも家族がいるのだから、お金よりも一番命が大切だと思う。
看護師になるには、理科や数学など様々な知識が必要になってくる。その中には、私の苦手なことにもあると思う。しかし、立派な看護師になるため苦手なことにも逃げずに挑戦したい。そして一度決めたことは最後までやりとげたい。時には失敗することがあると思うけれど、それでも挑戦し続けることが大切だと思う。嫌なことがあっても前を向き続け、看護師になるという夢がかなえられるようにがんばりたい。
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どんな壁も乗り越える 吉田 七海 勝山北部中学校 |
どんな壁も乗り越える
「県大会三位入賞」この目標は私にとっても高い壁だった。
私は中学一年生のとき、初めて駅伝に出会った。バドミントン部に所属していたが、体育の先生に駅伝に誘われ、「駅伝部」に入ることになった。当時は、走ることはあまり好きではなく、長距離なんて大嫌いだった。 駅伝の練習をする上で、バドミントンとの両立はとても難しく、部活動で手一杯だった。バドミントンを優先していたため、駅伝の練習にはあまり参加できず、タイムも伸びない一方だった。その頃の目標は「地区大会三位入賞。」あまり練習できなかったため目標も低かった。
地区大会本番。結果は六位で終わった。悔しいという思いもあったが、「やっと終わった」という気持ちの方が大きかった。
今年の夏。中学二年生になった私は再び先生に誘われ、駅伝部に入ることになった。七人のメンバーのうち四人が陸上部に所属しており、驚くほど速かった。心の中で私は「補欠メンバーになれるかも」という期待をしていた。
大会一ヶ月前から練習が始まった。初めは全くみんなのスピードに追いつくことができず、ついていくことが精一杯だった。
ある日、新しい監督が私達を指導してくださった。監督の練習はとても厳しかった。
「もう、走るのなんてやめよう」など思ったことはたくさんあったが、監督は一から私の走りのフォームを指導してくださった。私はその日から「みんなについていく」よりも、「フォームを意識する」ことに集中して練習に励んだ。 そして、二回目の地区大会の日がやってきた。去年とは違いとても緊張していた。私は四走者だった。私がたすきをもらったときには一位まで上り詰めていた。二位との学校との差は一分。走っている時は後ろから迫ってくるという恐怖心とたすきから伝わるプレッシャーで胸がはりさけそうだった。
ラスト一キロという時に後ろからすごいスピードで二位の選手が追い上げてきた。私は逃げることで精一杯でフォームが崩れてしまった。結果、みんなが頑張って作ってくれた一分の差はわずか十秒ほどになってしまった。
大会結果は二位。県大会に出場できたものの私はみんなに対する申し訳なさと悔しさで胸がいっぱいだった。
県大会まで残り一ヶ月。地区大会での悔しさは忘れ、私は以前よりも練習に力を入れた。
「もう一回みんなと走りたい」という一心でどんなに辛くて苦しい練習もみんなで頑張った。監督は毎日毎日、「みんな確実に速くなっている」と背中を押してくれた。私は家でも毎日三キロ、多いときは五キロ走った。つらかったがタイムが結果としてでるのがうれしかった。 県大会本番。会場ではあちこちから円陣の声が聞こえ、私達も気が引き締まった。私は緊張と不安でアップも集中して行うことができなかった。とうとう、女子の駅伝がスタートした。大雨の中、多くの歓声で盛り上がっていた。気がついたら私の番になっていた。
三走者の一年生からたすきを受け取り、私は練習してきた成果を精一杯出し切った。結果は六位入賞。三位に入ることができなかったが、地区大会で負けた学校にリベンシすることができ、一ヶ月前に比べてタイムが一分も速くなった。 駅伝は走るだけの単純なスポーツだ。しかし、私は駅伝に出会えて本当によかったと思う。辛いことも、やめたいこともたくさんあったけれどそれ以上にみんなと同じ目標に向かって努力することはとても楽しいからだ。
駅伝は自分自身に「自信」をくれた。これからも、どんなに高い壁があろうとも自信を持って乗り越えていきたい。
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愚かなホモ・サピエンス 藤井 駿輔 北陸中学校 |
愚かなホモ・サピエンス
「はぁ疲れた」僕はソファーに寝転がり動画を見漁った。窓を覗くと青い空と「怠けんな」と怒っているかの如く太陽が輝いている。鳥たちはせっせと一生懸命に羽ばたいている。 「僕も飛べたらな」と鳥たちの苦労を知らず願望たけを突きつける。
ふと、僕に一つの疑問が浮かんだ。「ホモ・サピエンスってどんな意味たろう」と。あまり意識したことがなかった。中一の時、社会で暗記しただけで、その意味までは知らなかったのだ。いつもはしばらくすると忘れてしまうが、この疑問は頭にこびりついている。生物に少々興味をもっているからであろう。このままにしても気持ち悪いので調べてみることにした。 「え?」僕は目を疑った。そこには「賢い人」と書いてあったのだ。これは、「俺たちは賢い」と言っているようなものだ。そこで僕はなぜ「賢い人」なのかを調べた。すると三つの説が出てきた。 一つ目、「他の生物と比較したら知能が高かった」だ。まず、人以外で賢い生物といえばタコ・イルカそしてカラスだ。しかし、タコ、イルカはIQが七人から九十程といわれている。対して人のIQの平均は百。そしてカラスは、人間の七歳児ぐらいの知能である。このことから、地球上で一番頭がいいのは人類である。
二つ目は、「他のホモ・○○と比べて知能が高かったから」というものである。まず、ホモ・サピエンスとは、「ホモ」が人、「サピエンス」は賢い、という意味である。つまり、他のホモ族と比べて頭が良かったからと考えた。しかし、ホモ・サピエンスと名が付けられたのは千七百五十八年である。それに対し他のホモ族が見つかったのが後なため、この説は違うことが分かった。
三つ目は、「ただの自慢」だ。俺たちは賢いと言いたかったからこの名前にしたという説だ。正直これが一番有力だと思う。なぜなら、千八百五十八年に知能を計るものなどあるとは思えないからだ。
この疑問を調べた後、僕はさらなるもう一つの疑問が生じた。それは、「なぜ他のホモ族がいないのだろう」というものだ。ニュースでも、中国人、アメリカ人、黒人、白人などはよく聞くが、ホモ・○○がとは聞いたことがないからだ。それで、これも早速調べてみることにした。
僕は目を見開いた。他のホモ族がいなかった理由は、食料や住処をめぐる現生人との競 争に負けたからし、考えられているからだ。つまり、まだ生き残っていると思っていたけれど、自然淘汰されてしまった。ということだ。
僕はこれらのことを調べて良かったと思っている。それは、単純に知識がついたという のもあるが、自分に「賢い人」と名付ける愚かさや、他のホモ族が絶滅した、自然淘汰されてしまったという自然の恐ろしさなどが分かったからだ。これからも疑問に思うことがあったらその都度調べて、たくさん学び「賢い人」に見合うような人になりたい。
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私の力になるもの 松原 清乃 北陸中学校 |
私の力になるもの
「人は一人では生きていけない」
度々聞くことで、そのたびに「そうなんだ」と思ったり、「そうかもしれない」「そうだよね」と納得しながら生活しています。 何かに支えられたり、勇気や力をもらっていると実感し、感謝することは今までに何度もありました。 私は今中学二年生で、陸上部に所属しています。小学生の頃から走ることが好きで、今は中距離を走っています。駅伝やリレーのような競技には、チームメイトみんなが同じ目標に向かってそれぞれの役割も待ち、勝利を目指して団結してつないでいく魅力があります。短距離、中距離、長距離などの競技は、部員で一緒に練習し、戦う場では実際一人です。一人ひとりそれぞれの目標や目的、目指すものがあります。距離が長いほど時に、フッと孤独を感じてしまうこともあります。一方で、無心に自分の世界に没頭できる魅力もあると感じています。走っていて孤独を感じてしまうときは、いつも応援してくれている家族や友達、一緒に練習に励んだ部員との時間や同じ競技で戦っている仲間を思い出します。それ以外に、私を孤独感から解放させてくれて、勇気や自信をくれるものがあります。それは「音楽」です。自分に寄りそってくれる大切なものです。
二年生の夏の大会で、一五〇〇メートルに出場しました。結果的には、「自己ベスト更新」でした。陸上部の部活動中は先生がいつもいろんな音楽をランダムでかけてくれます。「走るためのリズム感を身につけるためにかけている」と言いますが、そんな練習の中で好きになった歌があります。その歌の、楽しくて軽やかなリズム感は緊張を解きほぐしてくれて気持ちを軽く走らせてくれます。また、私の今の十代の気持ちや生活、ストーリーを歌っている歌詞は、共感できることもあって自信や勇気、自分への励ましをくれました。そんな大好きな曲が今夏の大会の私の出走のときにかかって、とても嬉しく、興奮しました。部活の先生や仲間、練習してきたことを思い出して、一人ではないことを実感した瞬間でもありました。最後の最後まであきらめることなく前を走る選手に追いつき、抜くこともできました。仲間からの応援だけでなく、耳に入ってきた音楽のおかげで自己ベストを更新することができたと思っていますし、全力を振り絞ることができました。街を歩いていて、買い物をしていても、テレビをつけても、いつも何かしら聞こえてくる音楽ですが、そんな身近な音楽は、いつの間にか勇気やカになっていると、改めて感じた大会でした。
私は、来年度の陸上部のチャプテンに任されました。キャプテンを選んでくれた先輩方 の気持ちに応えられるように、また、同学年や後輩たちも安心して陸上を楽しめるように
頑張りたいと思っています。陸上部として部員の絆をこれまでよりもっと深めたいです。 私にとって「音楽」が力の一つであるようにみんなにとっても「音楽」を通してお互いの存在を感じられるように、先生と相談しながら練習に上手く取り入れていきたいと思っています。また、結果として、部員一人ひとりがお互いに勇気や自信、力になれるような、そんな関係を目指していきたいです。
私の父はよくギターを弾いて歌を歌ってくれます。私の生活や誕生日などのイベント時 思い出にはいつも音楽があります。友達関係で悩んだり、自信をなくしそうになったとき もそんな音楽に助けられてきました。
私は、小さい頃から日本舞踊を習っています。私にとっての音楽のように、私も将来、私の日本舞踊が誰かの勇気やカになるような踊り手になりたいです。
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私の目標 下川 侑愛 勝山北部中学校 |
私の目標
私の目標は「どんな人からも頼られる人になる」ことです。
私は吹奏楽部に所属しています。今年は私の学年より多い人数の一年生が吹奏楽部に入部しました。今年の一年生は、ピアノ経験のある人が多く、すでに楽譜を読むことができています。私は楽器を習っていた経験がなく、一年生のときは、リズムが分からず苦労していました。とりあえずみんなに追いつけるように必死でした。一年経ち、ようやくリズムが分かるようになってきました。だから自分より楽譜が読める一年生を目の当たりに「すごい!」という気持ちも大きい反面「すぐ追い抜かれるかも…」という不安がよぎりました。自分よりも経験のある人に安易に教えてしまって、何か思われたり言われたりしたら嫌だと思ってしまい、どう教えようかと非常に悩みました。何か言うような一年生ではないというのは分かるけれど、やはり不安でした。私の目標である「どんな人からも頼られる人になる」は、このくらいの時期に意識し始めたことです。ですが、その時の自分の姿は、決して頼れる先輩には見えませんでした。このままの頼りないダサイ先輩のままでは嫌なので、私が一年生の時に先輩がどのように教えてくださったのか思い出しました。
私の直属の先輩はとても元気で明るい先輩でした。私が分からないことを聞くと、どんな時でも、「一緒に考えよう!」と言って笑顔で教えてくれました。そんな姿を思い出して、私が思ったのは自信があるように見えないと、頼りたいと思わないということです。もしかすると、先輩に自信があるように見えたのは性格上元気だからかもしれません。コンクールの練習で忙しかったり先輩も分からないことがあったりしたかもしれません。しかし、いつも笑顔で一緒に教えてくださったので、「先輩に聞こう!」と思っていたのだろうと思います。それから自分に自信が持てるような考え方をするようになりました。それは一年生は楽譜が読めるかもしれないけれど、楽器のことをよく知ってて愛しているのは負けていないし、それを分かって一年生はきっと尊敬してくれているということです。段々自信を持って活動に励むことができるようになりました。すると一年生からも「リズムが分からないんです…」や「次はどうすればいいんですか?」など積極的に聞いてくれるようになりました。これはきっと、私のことを頼りにしてくれているのだろうと思っています。部活動において、私は「どんな人からも頼られる人になる」という目標に近づけたと思います。
吹奏楽部では、夏のコンクールが終わると三年生が卒部します。もうすぐ私たちの代になります。一年生が入部しただけで、悩んでいたのに部全体のことを見て引っぱることができるのかと、とても不安です。そして三年生が卒部したら、次は冬のコンテストに向けて考えていくと思います。それに加えて何曲もの合奏やレッスン、何かしらイベント事の演奏をする機会もきっとあります。今、先のこと考えると、正直不安なことしかないですが「不安だ…不安だ…」と言っていてもずっと前に進まないので、前向きに頑張っていければいいかと思います。
私の目標である「どんな人からも頼られる人になる。」これは部活動以外でも意識していきたいと思っています。学年の中や中学校全体が関わる生徒会活動など。日々周りに気を配ったり、役割に立候補したり、積極的に仕事をこなしたりして、いろんな場面で、いろんな人に頼ってもらえるような人になれるように努力していきます。
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中学校3年生
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愛情 鈴木 心都 北陸中学校 |
愛情
二〇二二年秋、私たち兄妹にビックニュースが訪れた。それは、私たち待望の初めてのいとこが生まれるということだった。今まで私にいとこがいないということを周りの友達に言うと、本当かどうか疑われたり、驚かれたりすることが多く、本当に残念な気持ちでいた。叔父叔母の年齢からしても、流石にもう無理だろうと思っていたので、自分にいとこができるとは夢にも見ていなかった。だから、最初にいとこが生まれると聞いた時は信じられない気持ちでいっぱいだった。
それからは、いつ生まれるかと待ち遠しくしていた。そして、二〇二二年十二月三十一日、私のいとこである女の子、あーちゃんが誕生した。誕生の知らせを聞いてから、いつ会えるようになるのかと会えるときをずっと楽しみにしていた。約三か月後、ようやく対面できた。初めて会ったあーちゃんはとても小さくてこわれそうなくらいだった。でもとてつもなく可愛かった。そこから、会うたびに、笑ってくれたり、髪が増えてきたり、歯が生えてきたり、少しずつ言葉が喋れるようになってきたりして、成長を感じられた。
あーちゃん誕生から二年、あーちゃんは、随分口が達者になって私たち兄妹のことを名 前で呼んでくれる。一緒に遊ぶと、「もっかい」とおねだいしてきて、可愛さは増す一方だ。当然、私たち兄妹はあーちゃんにメロメロだ。アンパンマンのおもちゃを見ると、あ―ちゃんが喜びそうだと競って買おうとしたり、あーちゃんが世界一可愛いと豪語したりしている。完全に親バカならぬ、いとこバカだ。 こうして、あーちゃんが生まれ、触れ合う中で気づいたことがある。それは、父母の偉大さだ。例えば、あーちゃんを抱き上げたときも私たち兄妹は不慣れなため、危ない持ち方をしてしまい、すぐに泣かれていた。その時に、母は正しい持ち方を指示してくれた。子育てというイメージがあまりなかった父も、あーちゃんを慣れた手つきで抱っこしていた。おむつ替えの時でも手間取ることなく、手際よくおむつを替えていった。子どもは色んなものを触ったり口に入れたりして危ないので、誰かが常に気をつけていなければならない。父母は気をつけたほうがよい場所にアンテナを張っているかのように行動していた。そんな姿を見ていて、本当に子どもを育てることはたいへんだということを改めて実感した。そして、あーちゃんの面倒を見ている母を目にして、自分もこんなふうに育ててきてもらったのだなと思えた。そうすると、心が温かくなった。
今、私は、多少反抗期だ。自分としては、多少という枕言葉をつけておきたい状況ではある。母と言い争いすることも多く、正直母にウザイとかそういう負の感情を持つことも少なからずある。そんな時には父母がこれまでも今も愛情を持って育ててきてくれたことを思い返し、感謝の気持ちをもって接していきたいと思う。
それから、まだまだ戸惑うばかりなあーちゃんとの時間だが、成長を見守り、愛情を持て大切にしていきたい。いとこでさえ、こんなに可愛いのだから、自分の子供だったら、どんなに可愛いのだろう。そんな想像をすると、親になるのはきっととても幸せで楽しいことなのかもしれない。
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間違えること 服部 ちひろ 北陸中学校 |
間違えること
私は間違えることが苦手だ。理由は、恥ずかしいから、馬鹿にされないか不安だから、といった、なんとも単純なものである。しかし、そんな自分の考えが少し変わった出来事があったのだ。
今から数ヶ月ほど前のことになる。学校で定期的に行っている英会話の時に、質問の内 容や英語の意味が分からないことがあった。普通なら、ただ先生に訊いてみればいい。相手だって、それが仕事なのだから。だが、間違えたらダメだ、笑われてしまうのではないか、などと思ってしまい、中々言い出すことができなかった。そのことを母に話すと、こんな返事が返ってくる。 「なんでも質問してみればいいじゃない。わからんのやから。」 「それはそうやけどさ………。」 簡単そうに言ってくる母に、私は若干苛立ちながら言った。母はどんどん間違っていけば いい、といった感性の持ち主で、娘の私は対極にいるようなタイプである。母のコミュニケーション力と言えばいいのか、そういうところは尊敬できるほどに高く、少しでも遺伝したかったな、なんて思うことがあるくらいだ。 「ちゃんと訊いてみなあかんよ、恥ずかしがらんとね。」 そう母が言い、しばらくくだらない話をした後、その日の母との会話は終わった。 そして、あれから数日が経ち、私は趣味一つである、好きな男性ブイチューバーの切り抜き動画を見ていたときのこと。おすすめ欄をスワイブしていると、気になるサムネイルの動画が出てきたので、何気なくタップして見始める。内容としては、彼宛ての匿名のメッセージを読むという企画で、その動画で切り抜かれていたのは、送られてきた悩みにアドバイスをするというものだった。彼が悩み相談を受けているところを見たことがなかったので、こんなことをしていた時期があったのか、なんて思いながら、時折ゆらゆらと横に揺れる彼と、丁寧に起こされた文字の映る画面をぼんやりと眺める。すると、ある言葉がスマホから流れ出た。 「程よく間違ってみてはいかがでしょうか。無傷の人生ってないので。怪我しましょ、楽しく。」 その発言を聴いたとき、自分の中にあった何かが救われたような感覚がしたことを、今で もはっきりと覚えている。よくよく考えてみればそうだ。全く間違いをしたことのない人 なんていない。そんなの当たり前のことで。自分だって間違えても大丈夫。その考えに至った時、自分にのしかかっていた錘が外れたように、凄く心が軽くなった。
あまり間違いをしない方がいいのは事実である。しかし、絶対に間違えてはいけないと いうことではない。誰だって間違いをするし、 その度に他の誰かに教えてもらっているだ から、それは別に恥ずべき行動ではないのだ。 最近、私は英会話などでわからないことがあったら、できるだけ訊くようにしている。もちろん昔の考え方が全てなくなったわけではないので、一つ質問するのにも酷く緊張するし、そのせいか声が小さくなってしまうことだってある。だが、これをやめようとは思わない。なんなら、今後も続けていこうと思っている。いずれ、自分の中にある間違いは絶対にダメだという考えがなくなるように。 |
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リーダーに大切なこと 森石 想良 勝山北部中学校 |
リーダーに大切なこと
「じゃあリーダーは森石さんに決定で!」
その言葉を向けられたとたん、私は数分前の自分の行動を後悔した。普段なら絶対にや らないような、文化祭の出し物のリーダーに立候補してしまった。誰もリーダーをやりたが がらなかったので、「誰もやらないならやってみようかな」という軽い気持ちで手を挙げてしまったが、その行動は間違いだったのかもしれない、と私は心の中で思った。 昔から私は、リーダーなどの人の上に立つ仕事が苦手だった。みんなの前に立って話そう とすると、自分は何をすれば良いのか分からなくなってしまうのだ。中学生になって少しずつ苦手意識はなくなっていたが、結局誰かが立候補していたので自分からリーダーをすることはほとんどなかった。「想良ならいけるって」と、友達は応援してくれたが、私の心の中に不安は残ったままだった。 そしてついに、最初の話し合いの時間になった。私はみんなの前に立つ。心臓がドキドキしている。大丈夫、と自分に言い聞かせながら、私は話し合いを始めた。その場で臨機応変に対応することは苦手だったので、今日することや決めることをまとめて、それ通りに行うというやり方で話を進めた。その方法で大抵の事は上手くいってきたので、今回もきっと上手くやれると、そう思っていた。
「いや、まずは別の事からやった方がいいやろ」 その一言に、私は何も言えなくなった。今日はお化け屋敷で使うバネルを設置してみよ と決めていた。しかし、それを否定されてしまい、私の頭はどうすれば良いのか分からずパニック状態になってしまっていた。その言葉に続くように、他の人達も次々と反対したり話を聞いてくれなくなったりしてしまった。言い争いが加速していき、もう話し合いも準備も何も手がつけられなくなっていた。 私は一人でこの状況をどうしたら良いのか考えることしかできなかった。 あのとき、私はどうすれば良かったのだろうか。どうしてみんなは私の話や指示を問いてくれないのか。考えれば考える程イライラしてしまい、私は友達と担任の先生に今日起きたことを相談した。 「想良の間違ってないと思うけど、その前に想良もその人達の話を聞こうとしてなかったじゃないないの?」 先生のその言葉にハッとした。私はみんなに話を聞いてもらうために必死だったが、 それに意識を使いすぎてみんなの意見には耳を傾けらなかったのではないかと。リーダーとは、みんなをまとめて引っ張っていく存在だ。それなのに私は、今日はこれをする、あれをすると自分の意見を言ったばかりだった。 「だからまずは、想良から歩みよらないとだめなんじゃないかな。」 先生に言われた通り、私が今までのやり方を変えた。私が指示してもらうのではなく、それぞれが作業の中で意見や案を出し合いより良いものを作れるようにした。そうしたことで、自然とみんなの雰囲気も良くなり、私も今まで以上に頼られることが多くなっていた。 リーダーとはこういうことなのか。今回リーダーをしてみて、私は大切なことに気づく ことができたと思う。それは、自分のことも周りのこともちゃんと見て考えて行動できるのがリーダーということだ。私は現在図書委員長をしている。このときの経験を生かして、今度は一、二年生のことを引っ張っていけるようなリーダーになりたいと思う。 |
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回り道から得られる発見 倉谷 美伶 北陸中学校 |
回り道から得られる発見
小学生の頃の下校では回り道してはいけなかった。決められた道を歩いて帰らなければならなかった。しかし、六年間も同じ道で登下校するとさすがに飽きてくる。そう思った私は小学五年生の頃に少し回り道をして帰ったことがある。
いつもだったら歩道を歩いて帰る。でも、その道は上り坂になっていて、小学生の頃の元気があっても登っている途中でしんどくなる。その日は体育でマラソンをしたり、とにかくハードスケジュールで坂を登る体力も残っていなかった。そこで、小学生の頃の私は
「坂がない方へ行こう」と決めて、田んぼと田んぼの間の道を通ることにした。草木が生い茂っていて手入れもされていなくて、あまり道とは言えないようなところを歩いて行った。私はそのとき、どこにいて、この道を通ったらどこに出るのかも分かっていなかった。 いざ歩いてみると、半ズボンだった私の足に手入れされていない草木がたくさん刺さってきた。痛いような、くすぐったいような。
でも、小学生の私からしたらこの草木たちも家に帰れるかどうか分からない不安もいつもと違う感覚で楽しくて仕方がなかった。季節は夏で薄暗い時間だったら、そこには蛍がちらほら見えていた。蛍の数は少なくて、小学生の私は綺麗とは思えなかったけど、今度は家族みんなでたくさんの蛍を見に来たいと思った。そう思いながら五十メートルほど歩いて出たところはお墓の前の道だった。ここはお墓参りの時に毎回通る道だからここからだったらちゃんと帰ることができる。
でも、私はもうちょっと冒険したいと思った。今度は、いつもなら右に曲がるところをまっすぐ進んで、その先の角で右に曲がった。ここも歩いてみないとどこに出るのかわからない。ここはちゃんと道ができていたから歩きやすかった。その道端でたんぽぽのわたげを見つけた。時期を考えるとちょっと遅めだなと思った。しゃがんで息を何回か吹く。そうするとわたげが少しずつ飛んで行った。たんぽぽはわたげが飛んだらどうなっていくのか。枯れるのか、再生するのか。帰ったら調べてみようと思いながら歩き進めた。すると、紫陽花が咲いているのが見えた。左右で壁になるように咲いていた。雨が降ったのか、誰かが水をかけたのかは分からないが、紫陽花が少し濡れていた。歩いてみると、紫陽花のアーチをくぐっているような感じがした。その紫陽花のアーチをくぐり抜けると、自分の家が見えた。家に向かって歩いている間、私の心は満足感でいっぱいに満たされた。
家に家族みんなが揃って食卓を囲んでいる時に、回り道をして帰ってきた話をした。お母さんが、「回り道をするのは危ないけど、今度蛍見に行こうね」と言っていた。みんなで見に行くときには蛍がたくさんいますようにと願った。
今、中学三年生の私は早く帰ってスマホを触りたいから、駅から家まで回り道せずに一番近い道で帰る。小学五年生の時にした回り道を思い返して、今度時間があるときに回り道をするのもいいのかもなと思った。その回り道でどんな発見が得られるのか胸が高鳴る。
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挑戦でつくる自信 柴田 稀星 勝山北部中学校 |
挑戦でつくる自信
皆さんの小学校には学級長という役割はあっただろうか?ほとんどの学校には学級長という役割はないと思う。しかし、中学校では当たり前のようにクラスのリーダーが存在する。
私は、小学生のときから自分の考えを皆に伝える事ができなかった。否定されるのが怖いという理由で中学校に入っても苦手なままだった。しかし、私の周りには皆の前でもハキハキとしている子が多かった。そのためクラスに馴染むにつれて、思いを伝えるという行為が段々と怖いものではないのだと思えるようになった。私の中で自信が生まれた。
二年生後半。ちょうど中学校生活の半分にきたとき、私は学級長に挑戦したいと思った。一年生のときから憧れていたものの、まだ慣れない生活についていくのが精一杯で挑戦できずにいた。しかし二年生になり新しい事がなくなり挑戦にちょうど良いタイミングだった。これらのこともあって私は、二年生後期学級長に立候補することにした。正直立候補する前の心の余裕は無く誰が選ばれるのか不安だったが、先生と話し合い、二年生後期学級長になることができた。しかし学級長になれた私の心の中は不安でいっぱいだった。なぜなら、二年生後期は最高学生になる準備と二年生の締めくくりで仕事が多いからだ。そして私の学年から修学旅行に行く時期が早まったため、その準備や運営もしなくてはいけなかった。
学級長になっての初仕事は委員会と係決めだった。スムーズに決められるように男女に分かれて話し合うことになったが、男子と比べて女子はなかなか決まらなかった。皆、顔を伺いながら発言していたため、決めるのに時間がかかり、気まずいまま終わった。私は新学級長として、スムーズに話し合いができなかったことを恥ずかしく思った。男子は、雰囲気を和ませることができていたが、私はどう話し合えば良いのかわからず黙り込んでしまっていた。それが、学級長の役割を果たせていないように思い、自信がなくなってしまった。
係決めの後も決め事は多かった。特に大変だったのは、修学旅行の部屋のメンバー決めだ。
話し合う前からある程度メンバーができていたが、全員二人ペアだったので、どこか二つのグループにもう一人ずつ入り、三人グループを二つ作らなくてはいけなかった。そこで、どこのペアに誰が入るのかで揉めてしまった。その揉め合いの雰囲気を和ませる事ができず、一人の子が泣いてしまった。私は、自分のことで精一杯で周りの子の気持ちを変えてあげられていなかった。そして、泣き出した子には、なんの言葉もかけてあげられなかった。 泣かせてしまうような話し合いにしてしまったことで、私の自信はついになくなってしまった。なんとも言えない気持ちがいやで、母にそのことを相談した。すると母は、 「学級長って大変な仕事だからその仕事に就く人はだいたい限られてくる。不安だろうけど今をその限られた人の中にあなたはいるんだよ」と励ましてくれた。その時、なくなってしまったはずの自信が急に込み上がってきた。「私が落ち込んでいる暇はない」そう思えた。 それからは話し合いを時間がかかってもいいから、良いものにしようと努力することができた。怖かったが前向きに話し合いに取り組むことができた。もちろんその後も揉め合いはあったけど自信がなくなるということはなかった。 この経験から私は怖くても挑戦し諦めないということが、自分に自信がつくことなのだとわかった。これから高校生になりもっと違う課題が出てくると思う。しかし、その時でも自分が挑戦したいと思うことに迷わず挑戦して、新しい自信をつけていきたい。
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福井の魅力 三井 さやの 勝山北部中学校 |
福井の魅力
「大人になったら、東京みたいな大都会に住みたい。」今、小中高生でそう思っている人 は、多いのではないだろうか。私達はSNSで頻繁に見かける、キラキラした都会の様子に 憧れを抱くことが多い。私も少し前までは、
「福井は何も無いし、どこに行くにしても不便だ。大人になったら都会に住みたい。」と思っていた。しかし今では、そんな思いが少し変化した。 今年の春、修学旅行で東京に行った。私は家族で遠出することが少ないし、小学校の修学旅行は新型コロナウイルスの影響で県内だったので、私はその日をとても心待ちにしていた。事前にグループ内で、計画を練る時間はとても楽しかった。それだけでも、良い経験になったと思う。
東京に着いて始めに、浅草へ行った。体験したことないような人混み、飛び交うさまざまな言語、あの景色は一生忘れないだろう。有名な会社の建物や、観光地がたくさんあり、夢があるところだとわかった。「これが東京か。」と思い知った日だった。 二日目は、班活動での企業訪問がメインだった。私の班は日本銀行本店に行くと決めていた。学校から渡されたスマートフォンを頼りに、事前に決めていた乗る電車のホームまで向かう。通勤時間と被っていたこともあり混んでいたが、電子マネーカードのおかげで切符を買う必要がなく、予定していた時間より早く訪問先へ着くことができた。 企業訪問が終わり、帰るときの電車でこんなことがあった。私達は向かい合わせになっている二人がけの席に四人座って、一人がその近くに立っていた。ある駅に停まり、人が数名入ってくる。その内の一人の男性が私達に近づいてきたかと思えば、睨んでくる。 私達は、その男性が席に座わりたいのではないかと考えた。その後すぐ、班の内の一人が スッと立ち上がり、それに続いて他の四人もその席を離れた。するとその男性は、私達が座っていた席に一人で座った。私は少し、怖い体験をした気分になった。だが、「働いて、疲れている自分が席に座れず、四人もの学生が席に座っていれば悪い気にさせてしまうかもしれない。」と思い、少し反省した。東京のような都会では、こんなことが日常茶飯事なのだろうかと思い少し静会に対する認識が変わった。 企業訪問が終わって、午後にはディズニーランドに行った。始めはアトラクションを楽しみ、余裕をもってお土産ストアに行った。しかし子想以上に店内が混雑していたため、集合時間に間に合ったが、ギリギリになった。あれは浅草以上の人混みだった。 修学旅行を通して私が分かったことは、都会はキラキラしたことばかりではないという ことだ。福井と東京の違いは「人の多さ」だと思う。それによる東京、福井の良さはそれぞれある。しかし私は、今までその福井の良さに気づけていなかったと思う。東京の多様な文化や活気に触れたことで、私は自分の地元である福井の良さを再認識した。福井には、豊か な自然や温かい人々、歴史的な文化が根付いており、東京の喧騒とは違った穏やかさがある。修学旅行中、都会の便利さも魅力的だったが、福井のような心のやすらぎを与えてくれる場所は貴重だと感じた。今後は、地元である福井の素晴らしさを色々な人に伝えていきたい。
将来どこに住むかなんて、今はわからない。だが、福井の落ち着いた雰囲気は私に合って いると思った。今、小中高生の人はどうしても都会に憧れがちになるが、一旦自分の地元の良さに目を向けてみてほしい。将来、自分の人生を豊かにするために、しっかりと考えて納得のいく決断ができるようになっていくべきだ。
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