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アナウンサー&パーソナリティ

人生を変えたA4用紙の話

2025.06.23 Monday
青山学院大学陸上競技部に入部できたのは、1枚の履歴書がきっかけでした。
高校の顧問・米澤豪先生が青山学院陸上競技部OBで、原晋監督の教え子だったご縁から大学の練習に参加させてもらえることに。
全国的に見れば、まったく名前の知られていない選手だったのでスカウトが来ることはなく、今後の進路をどうしようかなと思っていた矢先、絶好のアピールチャンスが到来。
なにがなんでも印象を残したいと思い、真っ白なA4用紙に手書きの履歴書を作成。
「田中悠登をスカウトするメリット」「青学に新しい風を吹かせます」なんて生意気なことを紙いっぱいに書きました。わざわざ証明写真も撮りに行って、紙の右上に丁寧に貼り付けました。

そして迎えた練習参加当日。
テレビ越しで見ていた原監督が目の前に。監督って思ってるよりも背が大きくてオーラがあるんですよ。意気揚々と書いた履歴書も監督を前にすると、こんなもん渡せるか…と一旦カバンにしまいました。
いやーでもせっかく証明写真も撮ったしなぁと思い、腹をくくって履歴書を手渡しました。
監督は黙って手書きの文字をじっと見つめます。
しばらくして、「ほぉ!こんなやつ初めて見たわ」と一言。
そして、「やる気があるなら来なさい」と声をかけていただき、私の箱根駅伝への道が始まりました。

いま振り返れば若気の至りだったなと感じますが、これから年を重ねても何事にも恐れずに自分らしく生きていきたいと思います。つづく。

さて、先日テレビニュースのデビューをしました。
学生時代は寮の勉強部屋にスマホを立てかけ「中町2丁目ニュース」を収録していましたが、ようやくテレビスタジオでニュースを読む日がやってきました。
これからもまっすぐ、丁寧に、大和田2丁目からニュースをお伝えします。

氷水漬けで食べる夜ごはんの話

2025.06.11 Wednesday
あまりに細かすぎる自己紹介②
駅伝を本格的に始め、高校は敦賀気比高校に進学しました。
越前市にある実家から通っていたので、電車で約30分、さらに敦賀駅から自転車で約30分。アスリートとしての変なプライドなのか、バス運賃の200円が惜しいのか分かりませんが、土砂降りでも雪が積もっていても、意地でも雨合羽を着て自転車で通学していました。
車で送迎してもらっている同級生を横目に見て「俺、頑張ってるなぁ」と勝手に自己肯定感を上げていました。ちょっと、いや、だいぶ変ですよね。

放課後は気比の松原や部員手作りのクロスカントリーコースで走り込み。
怪我予防のため、帰宅するとすぐに業務用サイズのバケツに氷水を張り、腰まで漬かりアイシングをするのが日課でした。練習後でお腹ペコペコの私はアイシングが終わるのを待ちきれず、夕飯をおぼんに載せて氷水に漬かりながら食べていました。傍から見ると拷問にしか見えませんが…。

雨合羽で通学し、睡魔と闘いながら授業を受け、氷水に漬かりながら夜ごはんを食べる、そんな高校3年間でした。しんどいなぁと感じるときもありましたが、この泥臭い生活が今の私の土台を作ってくれたのかなと感じています。
とはいえ、放課後に教室でお菓子パーティをしたり、タピオカを飲みに行ったりする甘酸っぱい高校生活にも憧れていました。つづく。

毎週金曜日は午後3時50分からのおじゃまっテレを担当しています。
番組開始直前からリポートしていますのでぜひご覧ください。

あまりに細かすぎる自己紹介の話

2025.06.05 Thursday
あまりに細かすぎる自己紹介をはじめます。

ダイジェスト版はこちらです。
(本の巻末にある著者紹介風にまとめてみました)

田中悠登(たなか ゆうと)
2002年福井県越前市生まれ。
武生第二中学校、敦賀気比高校、
青山学院大学を経て、今春福井放送に入社。

現在アナウンサーとして働くが、
福井訛りが抜けず、アクセントに苦しむ。

学生時代は夢の箱根駅伝を目指し走り続け、
総走行距離は地球1周分4万kmを超える。
第101回箱根駅伝総合優勝、主将を務める。

趣味は蕎麦打ち、糠漬け作り。
好きな食べ物は鯖のへしこと芋焼酎お湯割り。

座右の銘は「トップでタスキリレー!」

中学時代は、ソフトテニス部に所属していました。
ポジションは前衛(ネット際でボレーやスマッシュをする役割)で、特別上手かったわけではないのですが、こんがりと日焼けた彫りの深い顔が強そうなオーラを醸し出していたらしく、顔で相手のミスを誘っていました。
しかし、その“顔オーラ”を活かせるのは初戦だけ。
一度戦った相手には実力がバレてしまい、よく攻め込まれていました。
それでもサーブは得意でした。テニスのサーブは2回打つチャンスがあり、2連続でミスをすると失点してしまいます。相手にマッチポイントを握られているときのセカンドサーブは本当に緊張して心臓の音が聞こえるようでした。
でもこのセカンドサーブでの極度の緊張感が、陸上競技のレースで外さない勝負強さにつながっていたと感じています。

中学2年生の冬に、
陸上競技への思いが一層強くなる出来事がありました。
12月、運も重なって駅伝の全国大会に出場することができたのですが、順位は下から4番目。全国にはこんなに足の速い人間がいるのかと、絶望した感覚を今でも鮮明に覚えています。
そんな想いを胸に観た年明けの箱根駅伝。
自分の全速力のペースで20キロ以上走る大学生の姿に惚れ、
これから駅伝にすべてを賭けてみたいと陸上部への転部を決意しました。
転部することをテニス部の仲間に伝えたとき、
みんなが「最後に円陣を組もう」と言ってくれて背中を押してくれました。本当にいい仲間に恵まれました。

転部したからには結果を出すしかない。
そう思って毎日ストイックに練習に打ち込みました。
とはいえ、陸上競技は孤独なスポーツ。
雨や雪の日は、走るのが嫌になることもありました。
そんなとき、両親がママチャリで後ろからついてきてくれ、
真っ暗な田んぼ道をライトで照らしてくれました。
私のタイムが伸びるにつれて、ママチャリでは並走できなくなり、
いつの間にか自転車はロードバイクに変わっていました。
自転車とともに成長した中学時代。続きはまた次回。

そんな中学時代から
家に帰ればいつも流れていた「おじゃまっテレ」
明日から、その「おじゃまっテレ」で
金曜日の中継を担当します。
福井駅から熱くお伝えします!