あの日を忘れないために
2025.07.02 Wednesday
あれは、私が入社8年目のことでした。
長崎県の雲仙普賢岳で発生した大火砕流で、多くの報道関係者や地元の方など40人以上が犠牲になりました。その衝撃は、34年が経った今でも 全く忘れる事ができません。そこで念願だった長崎県島原市へ。
この地で何が起き、教訓を後世にどう伝えるかを考える「がまだすドーム 雲仙岳災害記念館」に行ってきました。特に当時の取材陣が撮影していた「定点」から火砕流を疑似体験する映像をはじめ、カメラマンが使っていた三脚の脚が、高熱で細いひものようになった実物の展示などが、その恐ろしさを静かに語りかけていました。
私もこれまで阪神大震災や福井豪雨など様々な災害現場に立ってきましたが、
大自然への畏敬の念とともに、命を守る報道のあり方と責任を改めて考え、
雲仙の山々に手を合わせてきました。
なお記念館の「がまだす」とは、島原の方言で「がんばろう!」という意味だと知り、復興に尽力された地元の皆さんの大変な努力に頭の下がる思いでした。
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長崎県の雲仙普賢岳で発生した大火砕流で、多くの報道関係者や地元の方など40人以上が犠牲になりました。その衝撃は、34年が経った今でも 全く忘れる事ができません。そこで念願だった長崎県島原市へ。
この地で何が起き、教訓を後世にどう伝えるかを考える「がまだすドーム 雲仙岳災害記念館」に行ってきました。特に当時の取材陣が撮影していた「定点」から火砕流を疑似体験する映像をはじめ、カメラマンが使っていた三脚の脚が、高熱で細いひものようになった実物の展示などが、その恐ろしさを静かに語りかけていました。
私もこれまで阪神大震災や福井豪雨など様々な災害現場に立ってきましたが、
大自然への畏敬の念とともに、命を守る報道のあり方と責任を改めて考え、
雲仙の山々に手を合わせてきました。
なお記念館の「がまだす」とは、島原の方言で「がんばろう!」という意味だと知り、復興に尽力された地元の皆さんの大変な努力に頭の下がる思いでした。